かれん みどりさん
祖父は検査入院した時点で、既に末期の癌でした。 八十代という年齢を考慮して、告知をした上で残りの時間を悔いなく過ごしてもらいたい。それが、日々生死に触れている主治医からのアドバイスでした。 けれど、母は頑なに抗がん剤の治療を希望しました。 この状態での抗がん剤治療は、いたずらに体力を消耗するだけであることも事実でした。 迷いや責任の重さが、我々の決心を鈍らせました。 「あの人は、敵前逃亡しないんです」その時、母は厳しい目で何かを見つめるように言いました。その一言で、我々も腹を括りました。 結局、祖父は治療道半ばで亡くなりました。それでも、出来ることをしたという事実が、祖父を納得させていました。 あの治療方針は、母にとっても苦渋の決断でした。母はあの時、祖父と一緒に戦っていたんだと思います。 深くて優しい…その言葉を聞くと、私はあの時の母を思い出します。
ハトさん
寒い日でした。授業があと少しで終わる、という時間帯。私の前の席に座っている女の子の体が震えていました。 どうしたのかな?と思いながらふと目を下にやると、椅子の下に小さな水溜まりが出来ていました。 女の子はとても内気な子で、きっと授業中に「トイレに行きたい」と手を挙げることができなかったのでしょう。 私は水溜まりに気づきながらどうしたらいいか分かりませんでした。 授業の終わりのチャイムが鳴ったとたん、私の隣の席のじゅんくんが 「あ!花瓶の水変えなきゃ!」と言って教壇の花瓶を手に取り教室から廊下に出る途中のその女の子の席の所で花瓶を落としたのです。 あたりは水浸し。「ごめんなさい」といいながらじゅんくんは雑巾で床を拭きました。 わざとだと気づいたのは私とその女の子だけでした。 私は学校の帰り道、なぜか涙が止まりませんでした。 そして、私はその出来事とじゅんくんを好きになった事を胸の中にしまったのでした。
ゆっちさん
あれは確か、私が小学中学年の時だった。10月に行われた秋の運動会。 障害物競走があって、目の前には私の苦手な跳び箱があった。 早く走らないと・・・と緊張しながらも、スタートを切った。そして、跳び箱をいきおいよく飛ぶと、ドンと鈍い音が出た。着地に失敗してしまったのだ。(後で知ったが、下唇を切ってたのと、脇腹に血がにじんでてすりむいてた。でも、大した傷ではない。) それで一瞬どよめきが起きたかと思ったら、父が心配したのか慌てて来ておんぶして走ることに。 少しの痛みと恥ずかしい思いがあったけど、その時の父の背中は温かくて嬉しかった。そしてそのままゴールした。 普段は厳しい父親だけど、その時は優しかった。 今でも忘れられない大切な出来事だし、口では恥ずかしくて言えないけれど感謝していることでもあります。 「お父さん、あの時助けてくださり、ありがとう!!」
ネコママさん
物心ついた頃から私は、母の手作りスカートをはいていた。 小学校低学年の頃は、明るい色や柄だった。高学年になるにつれ、シックな色や控えめな柄に変わっていった。 母も、思春期の子供の好みの変化に合わせ、生地を売っている手芸洋品店で相当頭を抱えたに違いない。 まわりからは、 「お母さんの手作り?すごいね!」とか 「珍しいスカートだね。」とか 「ポケットが付いていて、便利だね!」とか 恥ずかしいけれど、嬉しい!!そんな言葉をたくさんもらった。 なんと言っても、私が一番スカートに感謝していること。 それは、いじめられてつらかった小学校三、四年生の頃。 スカートだけはいつも、どんな時も、私の味方でいてくれたこと。 今でも、助けてもらったことは忘れることができない。 私の思い出の中にある、色とりどりのスカートたち。 私の頭の中にあるアルバムに、どれも大切に大切にしまってある。
秋野 林さん
今年の春から私は大学生になり、一人暮らしを始めました。 初めは知っている人が全くいない環境に寂しさを感じ、毎日泣きそうになっていました。 そんな時に送られてきたのが、母からの大きな荷物でした。 段ボールには新聞のきれいな写真の切り抜きが貼ってあり、中にはたくさんのお菓子や食品が詰まっていました。 開けた瞬間まるで宝箱のようだなと思いました。 母が好きだったビスケットや私の好きなチョコレートがたくさん入っていて、なんだか元気が湧いてきたのを覚えています。 夏休みに入る前には母の「良い夏休みを!」というメッセージと共に花火が入っていたこともあります。 私が飽きないように毎回中身を変えて詰め込んでいる母のことを思うと、少しくすっと笑ってしまいます。 この宝箱のおかげで元気をもらい、今も楽しく暮らすことができています。 母には本当に感謝しかありません。
くろちゃんさん
私の子供が幼いころの話。娘2歳 息子10ケ月頃の事でした。 久しぶりに1時間くらい離れた実家に行った昼食を終えた頃。座ってお茶を飲みながら私と母が何気ない会話をしていたら、同じ部屋にいた息子が その部屋の毛布を引っ張っていました。 息子は10ケ月くらいでやっと歩ける頃だったので何をしているのかと二人で見ていたら 隣の部屋の方へ向かいました。 隣ではいつの間に畳で寝ていた娘がいました。どうやらその娘の上へ毛布を掛けようとしているのだと気づきました。 自分より大きなもこもこした毛布を掛ける行為は、やっとで わずかに娘の上にかかった感じでしたが、そのあと何度も娘の上へかけようとしていました。まだ1歳にならない息子のその行為に私と母は 感動とけがの心配で その部屋に駆け付けました。 すやすや娘は眠っていました。娘は、弟をとてもかわいがっていたので、その優しさが伝わっていたのでしょうね。大切な思い出です。
たっきーさん
当時私が飼っていた猫は、とても綺麗な顔立ちをした大吉(だいきち)という名の誇り高きオス猫でした。 欠点はただ一つ。誇り高き故に、なかなか飼い主に構ってくれないこと。 遊ぼうとすればどこかへ行ってしまい、無理やり抱っすれば引っ掻きと猫パンチで泣く泣く撤退。 ご飯をあげても猫砂を替えても、そんなの当然だろという澄ました顔でご飯はペロリと完食し、猫砂には堂々とオシッコをするのです。 ある日私はとても落ち込む出来事があり、家で1人ぽつんと座りぼーっとしていたのです。 そこへトコトコとやってきた大吉はおもむろに毛づくろいを始めました。 私はそんな大吉を横目で確認し、また大きなため息をつきました。 その瞬間、飼い主にすら懐かない大吉が私の膝の上に乗り、ぬくぬくと眠り始めました。 奇跡です。ありえません。 ありがとうもういいよと言うと、どこかに行ってしまいました。 励ましてくれたのかな。心を読まれたのかな。ありがとね。
おとさん
子供の頃、野菜が苦手だった僕に母が「ちょっとでもいいからコレ食べてみて」と出されたお好み焼き。甘いソースの香りだけど中にはキャベツが…!とりあえず1口2口と食べていくうちにあっという間になくなって、おいしく食べました。それ以来色んな野菜も克服していけた魔法の食べ物です。 兄が入院をしていた事もあり母が帰るのは月末でした。帰ってきたらリクエストのお好み焼きです。月に一度のお楽しみでした。 兄が亡くなり悲しんでいる母にオリジナルのお好み焼きを初めて作ってあげましたがヘタクソで生地をひっくり返したらバラバラに(笑)少しでも元気になってくれた様子を見て安心しました。 社会人になり実家を離れて辛くても家族にはなかなか話せなくても母には分かっていたようで そんな時は「お好み焼き作ろうか?」と優しく言ってくれた母 今は天国にいますが、お好み焼きを食べると嫌な気持ちを忘れさせてくれます。
小鳥さん
チリリン…秋の涼やかな風に揺らされて、いるかを型取った南部鉄器の風鈴が綺麗な音色を立てた。 桜子は「いるかさん、もう少し側に居てね。」心の中で思った。 写真立ての愛犬ココの頭を撫でて、「寂しいね…。」呟いた。 今年の春に娘家族が福岡に転勤して、桜子の部屋には孫達も訪れる事が無かった。期待していた夏休みも娘家族は帰省しなかった。 「今までは頻繁に孫達にも会えてたのに…。」スマホに写メは送られて来たり、電話は出来るけど、やっぱり全然物足りない。そんな寂しさを抱えて過ごしていたある夜、桜子は夢を見た。 壮大な海を仲間と楽しそうに泳ぐいるかの姿があった。何故かわからないけど、あの風鈴のいるかだった。 いるかは桜子に、「寂しかったら、自分から福岡に会いに行ってごらん。僕みたいに。」と教えてくれた。 朝目覚めた桜子は、そうだね。自分から会いに行こう。そんな気持ちになっていた。 心の距離が一気に縮まった。
すずのママさん
「もう家出する。私のこと大事じゃないんでしょ」 毛布、ねんど、黒飴をリュックにつめ、娘が言いました。 7年間一人娘だったすずに、妹ができました。赤ちゃん誕生を誰よりも喜んでいたのに、最近ずっと不機嫌です。 「家出、付き合う」パパに赤ちゃんを任せ、月夜に二人で外へ出ました。 娘が持ってきた黒飴をなめながら歩きます。 「大事じゃないなんて思ったことないよ」 「うそだ。さっきだって、すずの家出をママは心配するどころか笑った」 「だって、家出ってその荷物だけでどうやって生きていくのさ」 娘はポロポロ泣き出しました。「ねんどを売って生きていく……」 私は娘を抱きしめました。「寂しい思いさせてごめん。 寒いし、もう帰ろうね」 こうして家出は、口の中の黒飴がなくなる前に終わりました。 家の前に着くと娘が言いました。 「赤ちゃん泣いてないかな」 なんだ、優しいお姉ちゃんに成長しているじゃないと、私は心の中で思いました。